2021年1月の記事一覧

第3学期始業式

 令和2年度第3学期が始まりました。寒い中、子どもたちは元気に登校しました。始業式は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大をふまえて、放送で行いました。

  校長式辞

 あけましておめでとうございます。

 3学期は1月から3月まで、登校するのは50日です。この3か月で今年度のまとめをし、進級の準備をしましょう。1年生にも下級生が入ってきて、6年生は卒業して中学生になります。自信をもって進めるように頑張りましょう。

 コロナの感染が広がっているので、マスクをつけるなどの対策をしっかりとりましょう。

 3学期 なわとび 読み書き計算 まとめの学習 鼓笛 終了式・卒業証書授与式 がんばるモー

※ 子どもたちの3学期の目標の発表は、15日のふれあいタイムで行います。

年頭にあたり歴史を紐解く3 伊達崎小学校開校の経緯

 「年頭にあたり歴史を紐解く」3回目となりました。今回は、歴史ある伊達崎小学校の開校の経緯について、学校沿革誌を紐解きたいと思います。

 『明治34年度以降 学校沿革誌乙編 伊達郡伊達崎小学校尋常高等小学校』から

 ※ 明治34年は、西暦1901年。上の写真は、今から120年前、20世紀初年度の学校沿革誌です。ちなみに大日本帝国憲法公布が1989年、施行が1890年。1902年に日英同盟。1904年に日露戦争が始まります。

  一 開設以来沿革の大要  ※本文の送り仮名はカタカナです。句読点を入れひらがなで表記します。

 明治維新に際し、旧来の寺子屋教育に満足せず、国民教育の普及を画(本文は画の旧字 読み=くぎ)らんが為め、明治5年を以て学制の領布ありたり。この時にあたり、本村に於いては亀岡彦左エ門氏等奔走尽力し、他村に率先して之が設備を謀り、明治5年10月21日大林寺内40坪を借り受け校舎に充て、西山正躬外数氏を聘して教師となし、以て生徒を集め教育を施したり。此れ本村に小学校を設けたる嚆矢(こうし=物事の始まり)となす。当時の右?区(学区)を伊達崎、上郡、下郡、谷地、塚野目の五ケ村とす。

  <解説>

 江戸時代には藩が260以上あり、それぞれ独立した政治を行っていました。明治政府にとっては、日本という一つの国にまとめ、西洋諸国の植民地になることを防ぐことが大きな課題でした(富国強兵政策)。教育の面では、寺子屋の生活に即した読み書きそろばん中心の教育から、西洋諸国に追いつこうと国の科学技術力を高めるための教育へと転換する方向が出されました。その施策の一つが「学制」の発布です。しかし、当時、家庭の大事な労働力でもあった子どもを義務として学校に通わせることには、地域によっては大きな反発がありました。伊達崎でいち早く小学校をつくったということに、当時の人々の気概と地域の先進性を感じます。

 ※ 今回をもって、「年頭にあたり歴史を紐解く」は終わります。『沿革誌 伊達郡伊達崎村』そして『明治34年度以降 学校沿革誌乙編 伊達郡伊達崎小学校尋常高等小学校』から、改めて伊達崎地区、伊達崎小学校の歴史を知ることができました。

 明日から3学期が始まります。コロナ禍で首都圏の1都3県に緊急事態宣言が発令され、福島県内の感染も拡大しているところですが、子どもたちの健康に配慮しながら、充実した3学期にしたいと考えております。よろしくお願いいたします。 

年頭にあたり歴史を紐解く2 今も農地に欠かせない水を供給する西根堰

 昨日に引き続き、『沿革誌 伊達郡伊達崎村』(1954年・昭和29年12月発行)から、西根堰の部分を掲載します。

  一 元伊達崎村(大字伊達崎)

 天正18年(365年前)、伊達政宗、豊臣の勢いに服し、豊臣の家臣蒲生氏郷の所領となり、その子秀行慶長3年(357年前)下野国宇都宮に移り、上杉景勝之に代わり、その頃西根郷40ケ村の支配者佐藤新右衛門家忠は西根堰開鑿の事業を起こし、元和4年(337年前)3月に着手して下堰を工築、続いて古川善兵衛重吉はさらに上堰の工を起こし、寛永2年(330年前)3月竣工した。この両堰は当地方の殖産興業に貢献する所極めて大にしてその徳沢を感謝して西根神社に祀る。

 <解説> 『桑折学のすすめ ~郷土愛をはぐくむために』から (P52)

西根堰がつくられた背景

 上杉家は会津、置賜、伊達・信夫の120万石でしたが、関ヶ原の合戦で西軍に味方したため、徳川家康によって米沢・伊達・信夫の30万石に減封されました。しかし、家臣5千人をそのまま召し抱えたために藩の財政はとても厳しく、新田開発で耕作地を増やし、年貢を確保しなければなりませんでした。そのために必要だったのが用水路であり、西根堰が開削されることとなりました。

※ 一昨年12月にアフガニスタンで亡くなられた中村哲医師の番組が昨年12月に放映されました。中村哲医師は,アフガニスタンに27kmの用水路を建設して人々の暮らしを支え、アフガニスタンの人々から敬愛されています。昨年伊達崎を潤す下堰をたどる中、用水が水田だけでなく桑折町の主要な作物である桃の栽培にも使われていることを知り、西根堰の大切さを改めて感じたところです。先人の努力に感謝です。

  西根堰見学 4年生

 昨年12月16日、雪の中西根堰を見学してきました。荒天の中お世話いただいた水土里ネット石川様、大変ありがとうございました。

 

 昨春の西根堰(下堰)

  

 

年頭にあたり歴史を紐解く ~ 伊達政宗の「伊達」は、伊達郡の「伊達」 

 伊達崎小学校には、明治5年の開校以来の学校沿革誌や学校日誌等の記録とともに、戦争中の記録や旧伊達崎村の記録などが非常に良くよく保存されています。年頭にあたり、『沿革誌 伊達郡伊達崎村』(昭和29年12月 町村合併時に発刊)から、旧伊達崎村の歴史を、阿武隈川の河線による村の境界の変遷と伊達氏の入部までたどってみたいと思います。書き下さず原文をそのまま載せますが、意味はわかると思います。

 ところでみなさん知っていましたか? 戦国武将伊達政宗の「伊達」は、伊達郡の「伊達」なのです。

 ※ 申し訳ありません。耐火金庫に保管してありますが、薄い冊子で皺がよっています。

   発刊のことば

 昭和28年10月町村合併推進法が施行され、本村も之に順応して昭和29年12月31日伊達崎村を廃し新に桑折町として発足することになった次第であるが、この村の沿革の概要を記述して村民各位と共に往時を懐古して永遠の発展を祈念いたしたいと存じます。

                            昭和29年12月31日 伊達崎村長 石幡吉左衛門

                             ※昭和29年は、1954年です。

   伊達崎村沿革誌

 本村は元伊達崎村、上郡村並びに下郡村三ケ村を合して現在の伊達崎村を成したるものにして、遠い昔に遡りその紀元経過を詳らかにすることは出来ませんが、記録、伝説等に依り知り得た範囲に於いて記述す。而して維新以前については多少異なるので、各村別に列記する。

 

  一 元伊達崎村(大字伊達崎)

 本村は伊達西根郷に属し、東南中瀬村(保原町中瀬)及び向川原村(現在の粟野村大字向川原)は本村より分離したるもので、この2ケ村は以前本村熊野神社を氏神として、又現に本村満蔵寺の檀家両村に散在して居り、その昔阿武隈川が箱崎愛宕の下より急に東に折れ、伏黒村の南を流れ、保原町の西北を横切り、粟野村の古川沼を通り、梁川の西で広瀬川に合流し五十沢村に入る。その後数次の洪水に依り河線変遷の結果本村を貫通し、今日の如く中瀬向川原は対岸となり、遂に延宝6年(277年前)代官国領半兵衛支配の時代に分村するものと云う。

 常陸国真壁郡伊佐(茨城)の常陸介朝家(朝宗?)の子爲宗、爲重、資綱、爲家等が従軍し、信夫郡石那坂に於いて佐藤荘司等18人を討ち取り、その軍功により父朝宗に当伊達郡を賜り、居城を高舘(睦合村万正寺)に定め、之より伊達氏を名乗り、本村はその治下となり、その6男実綱本村西舘に居城を構えたと云う。今も舘沢部落に式部坂あり。実綱の子孫式部宗光の屋敷と関係あるものの如く、その付近に東舘、西舘、猪の馬場、又舘下に深町、目古町、岩の町、横町等昔の城下町が現在の字名として残されている。

 <解説>

 文治5(1189)年、源頼朝が平泉に本拠地を置く奥州藤原氏と戦い滅ぼした奥州合戦がありました。奥州合戦の主戦場が、福島盆地の入り口の石那坂と出口の阿津賀志山(厚樫山)です。鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」には、常陸入道念西(後の伊達常陸入道念西=伊達朝宗)の子が、石那坂で活躍した様子が描かれています。

 

 

 

 

桑折町役場新庁舎開庁式

 昭和32年に供用が開始され60年以上にわたり桑折町民に親しまれてきた旧庁舎から、昨年10月に完成した時代のニーズを踏まえた「町民のための庁舎」への移転がすみ、今日からの業務開始に伴って「桑折町役場開庁式」が行われました。

 開庁式においては、町長あいさつ、祝電披露、テープカットの後、町内各小中学校2名ずつの代表による「くす玉割り」が行われました。学校ごとに学年が割り当てられ、伊達崎小学校からは5年生が参加しました。緊張した雰囲気の中、しっかりと役割を果たしました。

 コロナ禍の中ですが、希望に満ちた新年が始まりました。