社会を明るくするための意見  じっくりとお読みください

平和について思うこと
 ~広島平和学習に参加して~
     伊達崎小学校 6年 大槻 和奏

 

よしお兄ちゃんが
げんばくで
死んだあくる日
おかあちゃんが
まい日 まい日
さがしたが
きものも
かばんも
べんとうばこも
骨も
なかった
おかあちゃんは
よしお
なぜ死んだのと
ないて
ないた
ぼくは
げんしばくだん
だいきらいだ

 

 これは、今から74年前、当時小学五年生
だった香川征雄さんが書いた詩です。
 74年前、1945年(昭和20年)8月
6日、広島に原爆が落とされました。原爆は
にぎやかで栄えていた広島の町を、悲劇の町
にしました。街はがれきの山となり、一瞬で
何万人もの人々が命を落としました。街は死
んだ人・ケガをした人・死んでいるのか生き
ているのか区別がつかない人であふれていま
した。そのときは大丈夫でも、そのときにあ
びた放射線がもとで、何十年もたった今でも
後遺症で苦しんでいる人もいます。体が麻痺
したり、体の一部がなくなったりして、つら
い思いをしている方もいらっしゃいます。
 今年の夏休み、私は、桑折町が主催してい
る「平和学習派遣事業」に参加しました。町
内の各小学校の6年生が、毎年8月6日に行
われる広島平和記念式典に参列するという取
り組みです。
 広島に行って、特に心に残ったのは、当時
の人の「言葉」です。私は、「被爆体験記朗
読会」に参加し、被爆された方が書いた詩の
朗読を聴いてきました。正直、私の軽い言葉
では、原爆の悲惨さは伝えきれません。そこ
で皆さんには、私が朗読会で聴いた中で深く
心に残った詩を紹介しようと思います。

 

つみきをつんで ようちえんで
遊んでいると げんばくが落ちて
てんじょうが落ちで
よっちゃんはしんだ
ぼくは 頭に けがをした
己斐の山に ようちえんの 先生と
にげて見ると むこうの山は
燃えていた
みんなにもいいませんでした

 

いたといたの中に
はさまっている弟 うなっている
弟は ぼくに
水 水といった
ぼくは くずれている家の中に
はいるのは いやといった
弟は だまって
そのまま死んでいった
あの時
ぼくは
水をくんでやればよかった

 

よしこちゃんが
やけどで ねていて
とまとが たべたいというので
お母ちゃんが かい出しに
いっている間に
よしこちゃんは
死んでいた
いもばっかしたべさせて
ころしちゃたねと
お母ちゃんはないた
わたしも
ないた
みんなも
ないた

 

 三つの詩とも、私たちと同じ子ども
の素直な気持ちが書かれているだけに
一層悲しくなります。
 ここにいるだれかが、次の瞬間、友
達や家族が死んでしまうことを想像し
たでしょうか。
 皆さんも、まずは感じてください。
自分に何ができるかなどと、考えなく
てもいいのです。私たちよりも、ずっ
とずっと頭がよくて、力のある大人が
たくさん集まって、たくさん考えてい
るはずなのに、今も世界中から戦争が
なくならないのです。
 まずは感じてください。戦争の悲し
さ、おそろしさ、残酷さを。
 最後に、もう一つだけ詩を紹介して
私の発表を終わりたいと思います。こ
れも当時の子どもが書いた、たった三
行の詩ですが、私が最も印象に残って
いるものです。

 

げんしばくだん
    さかもと はつみ

 

げんしばくだんがおちると
ひるがよるになって
人はおばけになる

 

 

毎年、桑折町小学校の代表児童5名が

広島平和公園での貴重な体験を通して

人としてどうあるべきかを深く学んできています。

今日の発表が、伊達崎小の子どもたち祖父母の皆

さんに深く伝わり

桑折町の今後のあるべき姿・人としてのありかた

などど深く思うことができたと思います。

大変価値ある発表でした。

 ありがとうございました。

 

 

参加することで町を守る

     伊達崎小学校 5年 岡崎萌奈

 私は、今年地元桑折町「諏訪神社例大祭」
に参加しました。
 桑折町というと小さな町ですが、五台の山
車が、太鼓と笛の音色を奏で、これでもかと
いうくらい盛り上がり、商店街が若い人から
お年寄りまでたくさんの人であふれ身動きが
とれないほどの一大イベントがあります。
 その祭りに、小さな頃から見に行き、いつ
かこの祭りで太鼓をたたきたいとあこがれて
いました。
 私は、祭りばやしの動画を見て、自分で新
聞紙を丸めてバチを作り、両手に持って見よ
う見まねで春から練習を重ねていました。
 祭りに参加するきっかけになったのは、父
の友人が毎年祭りに参加し、笛を吹いており
時々、父の仕事場に来ては、お祭りの話をし
ていってくれます。
 そこで、父が毎日私が動画を見て祭りに熱
くなっていることを友人にはなしてくれたの
です。そうしたら、その友人が仕事場に来て
「よかったら練習が7月に入ると始まるから
見学に来てみる?」「人数も少ないし、太鼓を
たたかせてもらえるようお願いしてあげるよ」
と私に声をかけてくれました。
 私は、今まで自分から興味を持ったことは
あまりありませんでした。しかし、太鼓は違
いました。やってみたい思いが強くありまし
た。そのため、知らない小学生や中学生、大
人達の中に一人で飛び込み、練習を見学して
みることにしました。
 練習場所は、桑折町の商店街にある大野屋
さんというお菓子屋さんの向かいの消防屯所
でした。父の友人に「7時半に練習が始まる
から、そのころにきてみな。つきそってあげ
るから」と言われました。母に車で送っても
らい、車を降りると、聞いたことのある笛の
音や太鼓が聞こえてきて、心がおどり「やっ
てみたい、たたいてみたい」と思いがまた強
くなりました。
 周りは、違う小学校の男の子達しかいませ
んでしたが、見学2日目に「二若連」という
連に入会することにしました。二若連は、昔
父が太鼓をたたいていた連でした。その話も
聞き、興味がわきました。
 昔は、人数がたくさんいたそうですが、今
は年々参加する子どもや大人が少ないので私
が入会することに連の人達は喜んで歓迎して
くれました。私の仲のよい親友も、私が太鼓
を始めたことを知り、入会し一緒に練習に通
ったことでさらに心強くなりました。
 祭りまで毎日夕方の練習が待ち遠しく、太
鼓の練習も練習を重ねるたびにみんなとテン
ポを合わせられるくらいになりました。練習
場所では、他の若連「睦若連」と合同練習で
した。大人の人達は、連が違ってもみんな優
しく教えてくれました。こうやって連が違っ
ても、みんなで協力して、はやしの練習をし
ているんだと思いました。
 また、各連のはやしの練習だけではなく町
民全体で祭りに向けて、旗を立てたり、町を
飾ったり、祭りの準備をしていくことでこの
桑折の祭りが成り立っているのだと思いまし
た。祭り当日も、若連では、近所の人が協力
し炊き出しを作ってくれたり、参加する人の
休憩のための飲み物を準備してくれたり、み
んなのありがたさがわかりました。私も2日
間、暑い中、大変でしたが、太鼓をたたいた
り山車をひいたりしました。とてもやりがい
がありました。
 祭りに参加することで、周りの人達の協力
の様子が見えたり、祭りを行うこと自体が町
を明るくし、活性化につながっているという
ことを学ぶことができました。
 来年も、二若連に参加し、祭りを盛り上げ
て、町の伝統を守っていきたいと思います。

 

自分は、桑折町を明るくするために何ができるのか

そう思うようになった経緯を詳しく述べています。

子どもだからこそ、ストレートに祭りを通して見えてきた

大切なことが述べられていると思います。

皆さんも、自分の町を明るくしていくために

何ができるのか考える機会にしてほしいと思います。

提案、ありがとうございました。

 

なお、誤字脱字はお許しください。